宇宙の話をしよう
地に足の裏をボンドで貼りつけて開催する意見のだしあいが苦手です。
少し前に大学の気の置けない友人たちとお酒を飲みました。
ぐだぐだするだけの男女混合の会です。
26,7歳にもなって、少し雰囲気は様変わりしはじめました。
長く付き合った彼女とそろそろ結婚しなくてはいけない。
彼氏ができない。婚活もからまわり。
仕事がしんどい。
聞いてるうちにつらくてああ~~~~~~~ってなって、いやわたしも、つらい。しんどい。でも生きるために毎日そればっかりなので、ここではそんなことやめたくて、口数が減ってしまって、「そんなことより女の人向けの女性がいる風俗に行ってみたい」といったら男の友人に「理解できない」と言われて余計へこんだ。私の口が軽率。
そんな中で、個人的に今回最高にロックな言葉を残してくれたのは、SNSを使いこなし友人も老若男女、シェアハウスで地域に貢献するウェブデザイナーの友人(女)だった。
「誰かに特別な存在として愛されてないと、生きてる意味なんてないって思って」
彼女は1人で十分生きていける経済状況で、かつ友人関係も充実していて、家に帰れば「おかえりーごはんあるよ」と笑って迎えてくれる人がいるシェアハウスにすんでいて。
彼女自身も「それで満足」って笑ってるけれど、上記みたいなことをぽろっと。
なんか、すごい良いなっておもった。
別に結婚したいと架じゃなくて、社会的に地位のある彼女が、社会的に生きるためのこと以外のそれがないと生きていても意味なんてないという。
結婚「しなくちゃいけない」とか。
しごと「しないと生活できない」とか。
そういうんじゃなくて、自発的に「別に周りはなんでもいいけど愛されてないと生きていけない」っていうの。
わかる、って感じでした。なんか根本。
結局お金ないと生きていけないし愛だけでは食えないけど、そういう話じゃなくて。
死んでたまるかってなるから、宇宙の話がすき
彼女の話は宇宙について考えることに似てると思う。
人体や社会性の維持にには一切関係ないところが。
私は専門知識がなくてもありったけの知識をしぼって宇宙の可能性を議論することが好きだし、「意味わからん」と一蹴されてしまうとかなしい。
でもそういった話をしてるとき、「あ~死にたくない こんなにいっぱい知らないことがあるのにまだ死にたくない」って思える。
社会性の維持に努める話はわりとすぐに死にたくなります。
生きることは、とりあえず続けるしかないもんなあ。
もう、結婚したいとかしたくないとか、わからないです。
結婚してる人がそれを強いるのも結婚はオワコンって言う人が既婚者にマウントとってるのもみたくないです。
仕事はお金のためとか昇進はどうでもいいとか、どうでもいいし、向上心がないことを蔑むことも、もうどうでもいいです。
でかいクリスマスツリーに文句言う人も、セクハラ被害者のあら探しする人も、どっちわるいしか話さないテレビも、もういいよ。
なにがそんなに嫌いなの。シンゴジでも観て、一回、大事な人をモブみたいにふみつぶされた気持ちになってほしい。
何が言いたいかわからなくなってしまった。
うーん
でもなんだか、社会的な話って批判ばっかりで。宇宙自体や愛自体には批判しようがないから。(あり方とか意見には批判が来るけど)
なんか、そういうほうこうで生きたいっておもっただけ。
何歳になっても夏に花火をすること。
なつやすみは夫と共にわたしの実家に帰っていました。
夫もすこし慣れてきたようで、釣りへ行ったり、昼寝なんかもしていました。
実家の小型犬だけが、新しい家族になかなか慣れてくれません。
今年のなつやすみは、家族と花火をしました。
家族で花火といっても、もう全員20を超え、82歳の祖母も含めた8人(平均年齢50歳超え!)で、です。
すごくたのしかった。
親族が祖母の家に集った日、
はじめは私と夫と大学生のいとこでパチパチやっていたのが、
気づいたら母と叔母、
めったにお遊びに外に出てこない叔父、
3時間前のことを思い出せない祖母までがぞろぞろと出てきて、
みんな花火を見て、あれがきれいだとか、これは長持ちだとか話していました。
いとこと全員に花火を配って、みんなで火を分けながら、花火をしました。
祖母の家の近くには、10年くらい前までは近所のおじいちゃんおばあちゃんの井戸端会議場所になっていた小さな石橋があります。
叔母が冗談で「この集落の銀座」と呼んでいた、小さいころにいつも花火をしていた場所です。
いまは高齢化が進みすぎて、あんまり人は来ないのですが、その日はそこで夫が鼠花火を弾かせました。
あれ結構音するんですね。
しばらくすると祖母の家の向いにすむおじいさんが出てきて
「寝るかとおもっていたが、橋の上から懐かしい音が聞こえたからつい来てしまった」
と、寝間着に腹巻でわらっていました。
そんなこんなでついには8人にもなり、最後は、みんなで線香花火をして、おひらきになりました。
線香花火は本数がすくなかったので、「やりたいひと!」と募ると、叔父がいの一番に手を挙げたのが面白かったです。
小さいころは、こうやって家族でよく花火をしたなあ。
でも、今も、全然かわらないみたいです。うれしかったな。
なんとなく、みんなおんなじ気持ちだったように思います。
(わたしたちの昔のことを夫は知らないことだけど、花火をしようと買ってきてくれたのは夫でした。ありがとう。)
来年も、花火できたらいいなと思います。
季節のイベントを無理しない程度にかじっていきたい
やっぱり社会人になってから、季節イベントをよく逃してしまってるようです。
この花火のこともそうなのですが、できるだけ小さいころにしたような、夏に砂浜に行くこと、土用の丑にうなぎ、お月見なんかも、豆まきなんかも、やっていきたいなあと思います。
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こういうのは見ているだけで幸せになれるもんね。
そろそろネット上の大声に耳をふさぎたい
最近、情報に気持ちが振り回されているように感じています。
この頃、Yahooトップにあるニュースを漁って、コメントをみることが増えていました。
初めは多数派の意見ってこうなんだな、なんて面白くてみていたのですが、ふと気づくと、なんだか気持ちがざわついて辛い。
SNS疲れ自体はここ2年くらい感じていて、Facebookはもちろん、ネット上の知り合いしかいないはずのTwitterもなにやら息苦しく思っていたのですが、とうとうYahooニュースすら見てられない、みたいな状況になってしまいました。
そんなときに、この記事。
なんか。なんかなあ。人は繋がりすぎたのかなあ。
いっかい、全部切り離してみてもいいんではないかと考えています。
流行や時事ネタにはついていけなくなるけれど、社会についていくことが自分のストレスになるなら、ちょっとやめてみてもいい気もしています。
見ないと不安で、見ることが癖になっているから、直さないといけないけど。
趣味の如くやっているWikipediaのリンクをひたすら漁ることは、何のストレスもないです。
完全とは言えないけど、書いてあることは"事実"であって、"意見"の主張ではないからかもしれない。